日本の歴史に登場し影響を与えた外国人は多数いますが、皆さんは誰を思い浮かべますか?
ペリー、シーボルト、ダグラス・マッカーサー、鑑真、クラーク博士、ラフカディオ・ハーン、トーマス・グラバー、ルイス・フロイス、三浦按針 などなど。
いろいろな名前が出てくると思いますが、真っ先にこの人の名前をあげる方が多いのではないでしょうか?
フランシスコ・ザビエル
日本人なら誰もが知っている外国人といっても過言ではありませんよね。
4月7日はフランシスコ・ザビエルの誕生日、そして布教の旅に出発した日でもあります。
そこで今回は
『ザビエルが感じた日本』5つのすてきコトバ
をご紹介します。
フランシスコ・ザビエルとは?
1506年、ナバラ王国(現在のスペイン北部)のハビエル城で生まれました。貴族出身ではありますが、フランスとスペインの紛争に巻き込まれナバラ王国はスペインに併合されます。19歳の時、名門パリ大学で哲学を専攻し、仲間の強い影響を受けたザビエル青年は聖職者となりやがて東国へ布教のたびに出る決意を固めます。
1534年、仲間と共に「生涯を神に捧げる」誓いを立てイエズス会を創設しました。世界布教を目指すイエズス会は1541年、インドのゴアへ向けて出発し翌年から布教を開始します。
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ザビエルはいつ日本へ?
1549年8月15日、鹿児島県に上陸。9月には、薩摩の大名・島津貴久に謁見し、宣教することを許されました。そこから約2年間にわたる日本での布教活動が始まりました。
その頃の日本は?
ザビエル一行が日本に到着した1549年頃はどんな時代だったのでしょう?
スバリ、戦国時代真っ只中の大変不安定な時代でした。武田信玄・上杉謙信・今川義元らが勢力を拡大していた頃です。「桶狭間の戦い」で織田信長が今川義元を打ち取る10年前、徳川家康はまだ竹千代として今川家の人質でした。
こういった状況の中、武士から農民まで幅広い人々と交流したザビエルの目に戦国に生きる日本人はどのように映ったのでしょう。
節操のある国、日本
キリスト教の国であっても、そうでない国であっても、
盗みについてこれほど節操のある人々を見たことがありません。
このコトバ、海外に行くと痛感しますね。
異教徒と言いつつも…
この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、
日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられない。
異教徒という呼び方は「野蛮な人々」という見下した言い方だと学校で習ったのですが、ザビエルはそう呼びつつも「最高」と言っています。
映画「沈黙」に登場するような純粋な心を持った人に多く出会ったのでしょう。
ほめちぎる
彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がない。
また褒める。 逆にザビエルはそれまでどんな人々に出会ってきたのか気になります。
武士との出会い
驚くほど名誉心の強い人々で、
他の何ものよりも名誉を重んじる。
ザビエルは布教の過程で農民だけではなく、協力を仰ぐために大名を始めとする武士や商人と会っています。さらには仏教徒とも積極的に論じ合ったといいます。ただ、貴族出身のザビエルが武士たちの名誉心に驚くのは意外でした。
貧しいのではなく質素だった
大部分の人々は貧しいが、武士も、そういう人々も
貧しいことを不名誉とは思わない。
西洋貴族の目線では貧しくも美しい心を持った人々と映ったのでしょうね。
来日から2年後の1551年、ザビエルは再びインドへと渡りました。その後、中国に渡るも46歳で病死しました。サビエルの死後、遺体はイタリア、ポルトガル、マカオ、日本などに分散され埋葬されています。日本では東京にある神田教会に安置されているそうです。
いかがでしたか?
『ザビエルが感じた日本。5つのすてきコトバ』
戦国時代に布教のため来日したザビエル。戦いに明け暮れる時代であったにも関わらず、彼のコトバからは「戦国」という時代を感じさせなかったことが驚きでした。。
武士は領土を守るため刀を抜き、庶民は貧しい生活を余儀なくされていたはずなのに、ザビエルの目には日本人の暮らしぶりや精神性のほうが印象に残ったようです。貴族出身のサビエルとは言え、隣国の戦争に巻き込まれて国を失うという経験をしています。日本人の苦労がわかるからこそ、その精神性に感じることが多かったのでしょう。
彼が今の日本を見たなら何を感じるのでしょうか?
もしかすると、今の方がよっぽど乱れた世の中なのかもしれません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
皆さんにとってハッピーな1日が訪れますように ♪
すてきコトバが届きますように。