マーチン・スコセッシ監督『沈黙 ーサイレンスー』

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★★★★


マーチン・スコセッシ監督『沈黙 ーサイレンスー』

Silence/2015/America

原作:『沈黙』遠藤周作著(1966年出版)


<あらすじ>

時代は江戸初期の長崎。キリスト教は禁教となり信仰を捨てない信者は激しい弾圧を受けていました。日本で布教活動をしていた宣教師たちも次々と命を落とす中、ポルトガル人宣教師ロドリゴとガルペはマカオから長崎にやってくる。二人を案内したのは日本人のキチジロー。幕府の弾圧の中「隠れキリシタン」として人目を避けて暮らす村人たちと出会いその信仰心の強さにロドリゴたちは驚く。しかし、キチジローの裏切りにより村人とロドリゴたちは囚われの身となる。村人に対する容赦ない拷問、棄教を迫る長崎奉行・井上筑後守。ガルペの死。ロドリゴの信仰心は次第に揺らいでいく。なぜこれほどまでに神を苦しみを与えるのか?なぜ神は沈黙しているのか?神は信仰心を試しているのか?問いを繰り返すロドリゴの前に師と仰ぐフェレイラが現れる……。

音楽のない映画

音楽によって心が揺さぶられるのもいいけど、この作品には音楽による心理誘導が一切ありません。あるのは潮騒、風の音、虫の鳴き声、そして静寂。

拷問を受けながらも信仰を捨てなかったキリシタンたちが持つ「心の平安」を表しているようです。

信仰にとらわれる人々

信仰って何?
生きるってどういうこと?
そもそも、「人間」って何?
答えを追い求める者にとって沈黙ほど辛いものありません。

人は常に何かにとらわれています。
目の前のしがらみや欲望などにとらわれて生きています。
作品に登場するパードレたちも例外ではありません。
その背後にある教会や信仰、布教したいという欲にとらわれているのです。

キチジローの正体

容赦なく描かれている隠れキリシタンに対する拷問。
私には欲にとらわれた人間の苦しみを表現しているように見えました。
彼らの苦しみを解放するためフェレイラは自らの信仰(しがらみ)を捨てたのだと思います。

欲を捨てきれずに何度も信仰を捨てたキチジロー。
この作品で描かれるキチジローこそ「素の人間」でした。人間の本質を見た気がします。

自分をキチジローと重ね合わせたり、嫌悪感を持ったり。もっとも見る人の心を揺さぶる存在だったのではないでしょうか。

やがて彼は、強い信仰心と、それとは裏腹にロドリゴを裏切った自分への罪の意識にとらわれて生きていくことになります。

信仰とは十字架を身につけることでも背負うことでもない。

神はあらゆる形で存在はするし、仏様も同様です。
ただ、自分と別の存在として見出そうとするとそこには「沈黙」が訪れます。

なぜ、「沈黙」なのか?  それは「答え」が見つからないから、ではないでしょうか?
自分を捨て去り、『全ての存在は一体である』ということに気づいた時、ようやくあの人の声が聞こえるのかもしれません。

信じることができますか?
「私は沈黙していたのではない。共に苦しんでいたのだ。」
というあの人の言葉を。

印象に残った二人

序盤の主役とも言える茂吉を演じた塚本晋也さん。激しい拷問の末に不幸な結末をたどることになるが彼の迫真の演技が際立っていました。信仰を持つものの瞳の奥に宿る光がとても綺麗に思いました。

それからキチジロー役の窪塚洋介さん。喜怒哀楽、すべての感情に正直に生きたキチジローのギラギラした瞳が印象的でした。裏切りと後悔を繰り返すキチジローは疎まれながらもロドリゴのそばを離れなかったのは、キチジローの中に神が宿っていたからなのかもしれません。

もう一つの『沈黙』

1971年に製作された篠田正浩監督『沈黙-silence-』は必見です。

スコセッシ監督作品を見たあとでも前でも構いません。井上筑後守やフェレイラの違いなどに注目してみると面白いと思います。


いかがでしたか?

マーチン・スコセッシ監督『沈黙-silence-』は原作に忠実に描かれています。

スコセッシ監督から遠藤周作さんへのリスペクトが感じられる大傑作でした。

この作品は「神とはなんなのか?」との問いを与えました。

それと同時に自問自答する時間も与えてくれました。

この作品との出会いに深く感謝します。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

ではまた、別の作品でお会いしましょう。

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