正直・節検・丁寧・清潔 日本は一冊の本になる。
エドワード・モース(Edward Sylvester Morse)は、1863年6月18日 アメリカ・メイン州ポートランドで生まれました。
明治10 (1878)年から明治15 (1882)年にかけて、来日したアメリカの動物学者です。
13歳頃から貝類の採集をしており、学者が見学しにくるほどの標本を作っていました。
モース博士といえば『大森貝塚』の発見で日本の教科書にも載るほど有名な人物ですが、他にもダーウィンの『進化論』を日本に伝えたことでも知られています。
また、来日当時開設されたばかりの東京帝国大学(現東京大学)に優秀な教授陣を派遣し近代大学の基礎を作った人でもあります。
当時、明治時代初期の日本を観察し多くのコトバを残しました。
それらのコトバは「JAPAN DAY BY DAY」(日本その日その日)や 「Japanese Homes and their Surroundings」といった書籍を通して、現代に伝えてくれています。
そこには古き良き日本の姿が、驚きと敬意をもって記されています。
そこで今回は
モース博士と日本。その功績と 10のコトバ +1
をご紹介します。
日本初の『発掘調査』を行った人
モース博士が21歳の時ダーウィンの『種の起源』が出版されます。生物学、生物分類学の世界が大きく変わろうとしていた時代です。
節足動物の標本採集のために来日。文部省に採集の許可をもらうため、横浜から新橋までの電車の窓から見つけたのがあの有名な『大森貝塚』。
のちにモース博士によって発掘調査がされます。これが日本初の発掘調査でした。
東大の基礎を作った人
当時できたばかりの東大。教授陣の多くは専門知識を持たない宣教師が多数を占めていました。その状況を憂慮したモース博士はそれらの宣教師を排除し、日本の専門家と協力しながら優秀な外国人教授を来日させます。
物理学教授にはトマス・メンデンホール。日本の地球物理学の基となる、重力観測や気象観測を行いました。
哲学・政治学教授にアーネスト・フェノロサ。東洋美術に精通していたフェノロサは日本美術を広く紹介した人です。
こうして、最高学府としての東大に大きな貢献をしました。
ダーウィンの『進化論』を日本に
1859年に出版されたチャールズ・ダーウィンの『種の起源』。生物学全体に大きな影響を与えた進化論を日本で講義したのはモース博士でした。
キリスト教の世界では「生物は全て神が作った」と信じられていましたから、地動説を唱えたガリレオに匹敵する衝撃的な考え方だったでしょう。
日本初の学会
『東京大学生物学会』を植物学者の矢田部良吉と協力して発足させました。日本初の学会です。それは現在でも『公益社団法人日本動物学会』として活動しています。
モース博士は5年間で3度の来日を果たし、東大で教鞭をとる一方で、標本採集のために北海道をはじめ、様々な土地を訪れています。
その日本での体験談を紀行文「JAPAN DAY BY DAY」(日本その日その日)や「Japanese Homes and their Surroundings」という書籍に残しました。
明治時代の日本がそこには描かれています。
その中からいくつかの「すてきコトバ」をご紹介します。
人々が正直である国にいることは実に気持がよい。
私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。
錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。
日本人の清潔さは驚く程である。
家は清潔で木の床は磨きこまれ、周囲は奇麗に掃ききよめられている。
レインをはじめ文筆家たちは「日本の住居にはプライバシーが欠けている」と述べている。
しかし彼らは、プライバシーは野蛮で不作法な人々の間でのみ必要なことを忘れている。
日本人は、こういった野蛮な人々の非常に少ない国民である。
日本人は生れながらに善徳や品性を持っている
モース博士は日本で日本人と働き、日本人と一緒に生活をしていました。その中で生まれた日本人に対する『信頼感』が感じられるコトバですね。モース博士の視点も決して上から見下ろすようなことはなく、博士と周囲の人々との良好な関係がうかがえて嬉しくなります。
この地球上の表面に生息している文明人で日本人ほど、自然のあらゆる形況を愛する国民はいない。
労働の辛さを、気持ちのよい音か拍子かで軽めるとは、面白い国民性である。
モース博士は動物学者。よく観察されていますね。日本文化になじみつつも、客観的な見方をしています。そして、表現の仕方が学者っぽくて素敵です。
子供が誤って障子に穴をあけたとすると、四角い紙片をはりつけずに桜の花の形に切った紙をはる。
世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。
ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福である。
赤坊が泣き叫ぶのを聞くことは、めったになく、又私はいま迄の所、お母さんが赤坊に対して癇癪を起しているのを一度も見ていない
外国人の筆者が一人残らず一致することがある。
それは日本が「子どもたちの天国だ」ということである。
明治の頃は、子供にとって住みやすい日本だったようですね。
大人は愛情と寛容さを持って子供と接し、子供たちがのびのびと育った時代。
モース博士が現在の日本社会を見たら、なんというでしょう。
明治維新以降、日本は『国策』として西洋文化を取り入れ、西洋の合理性を取り入れることで国力をつけてきました。その結果として、日本古来の風習や文化を一部排除することとなりました。それは、残念なことではありますが、同時に仕方のないことだとも思います。
しかし、モース博士のコトバから読み取れるのは、日本人は日本人の心、すなわち「美しい心」を持っていたという事実です。西洋化の波の中でも人々は日本の心を持ち続けていたのです。
それは日本人として誇らしく思うと同時に、今を見渡した時「それらはすでに失われている」という現実に直面します。
そして悲しみにも似た虚無感におそわれるのです。
西洋化へとひた走った日本。そのためにたくさんの外国人にきてもらいました。その一人であるモース博士が「日本の心」に深く感銘を受け、今にそれを伝えているという奇妙な図式。
モース博士が教えてくれた日本。
ボクらはそのコトバから、かつて美しい日本が存在したことを知りました。
そんな日本を取り戻したい。
今を見つめ直す、いい機会をモース博士が与えてくれたような気がします。
いかがでしたか?
モース博士と日本。その功績と 10のコトバ +1
江戸時代から劇的な変化をとげた明治時代。
時代が変わっていく中で失わなかった心。
貴重な心を現代に伝えてくれたモース博士に感謝。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
皆さんにとってハッピーな1日が訪れますように ♪
すてきコトバが届きますように。
モース博士の書籍
日本その日その日
モース博士のスケッチとともに当時の文化が詳細に記録されている素晴らしい著作です。
画像をクリックすると詳細ページに移動します。
豆知識
モース博士は両手両利き。
左右の手で別々の文章や絵を描くことができたそうです。
授業で板書する時は学生たちが大いに盛り上がったとか。
スケッチやイラストもかなり早かったそうです。